震嵐(しんらん)式局地戦闘機の詳細
震嵐(しんらん)式局地戦闘機は、太平洋戦争末期、旧日本海軍が極秘裏に開発していたとされる高高度迎撃専用戦闘機である。
B-29超高度爆撃機の脅威に対応するため、従来機では到達不可能な高度と速度性能を求めて構想された本機は、その先進性ゆえに「幻の戦闘機」として今も一部の航空史研究者の間で語り継がれている。
開発が始まったのは、1944年末のことである。B-29の侵入高度は1万メートル近くに達し、既存の零戦や雷電では性能的に対応が難しくなっていた。
この状況を打開すべく、海軍航空技術廠は従来の常識を覆す構造とエンジン配置を持った迎撃専用機の開発を命じた。
震嵐式の最大の特徴は、当時としては革新的だった二重反転プロペラと、国産としては例のない大型液冷V型12気筒エンジンの採用である。
さらに、このエンジンには2段3速の遠心過給機が装備されており、高高度でも安定した出力を確保できたとされる。
機体構造は、従来の骨組み式から半モノコック構造に刷新され、空気抵抗を最小限に抑える流線型の設計が施された。
主翼には層流翼断面が用いられ、操縦安定性と高速性能を両立していた。航続距離は短めであったが、これはあくまで局地防空に特化した設計思想によるものである。
武装もまた強力で、機首には20mm機関砲「九九式二号」を2門、胴体下部には新開発の30mm機関砲を1門搭載していた。
さらに、翼下に短距離ロケット弾の懸架も可能であり、敵大型機に対しての一撃離脱戦法に特化した火力構成がなされていた。
コックピットは与圧構造となっており、操縦士の高高度環境での負担を軽減。フレームレスに近い大型風防が装備され、視界も良好であったという。
実験段階では離陸支援用の火薬ロケットの併用も検討されており、性能だけでなく即応性にも配慮された設計思想が伺える。
しかし、その優れた設計とは裏腹に、震嵐式は実戦投入には至らなかった。理由は明白である。エンジンの複雑さ、高度な製造技術、そして終戦間近の資源不足。
試作機1号が完成した時点で既に日本の戦局は決定的に不利となっており、量産計画は幻と消えた。
現存する震嵐式の資料は非常に限られているが、戦後、米軍が接収した技術資料の中に「不明な高高度戦闘機」の設計図があったという証言がある。
さらに、横須賀基地で撮影された写真の背景に、見慣れないプロペラと胴体形状の機体が写り込んでおり、それが震嵐式であった可能性も指摘されている。
もし震嵐式局地戦闘機が量産されていれば、B-29による無差別爆撃に対して一定の抑止力となった可能性は否定できない。
とはいえ、その高度な設計思想は、むしろ敗戦必至の状況下における“最後の夢”のような存在だったのかもしれない。
現在では、その存在自体が作る話のような扱いを受けているが、技術的考察や設計案を分析する限り、当時の日本が持てる技術を総動員して作り上げようとした機体であったことは疑いようがない。
震嵐式局地戦闘機は、敗戦間近の日本において、それでもなお技術革新を諦めなかった技術者たちの“執念の結晶”と呼ぶにふさわしい存在である。