昭和19年、連合国軍による空襲が本土各地を襲い始め、日本列島は戦局の悪化とともに深い混迷の渦中にあった。戦線は南方から次々に後退し、国民生活は疲弊の極みに達していた。
こうした中、旧日本陸軍は「戦局を劇的に転換する一手」として、アメリカ本土を直接攻撃する戦略爆撃機の開発に極秘で着手する。それが、いまや“幻の重爆”と語り継がれる「富岳超重爆撃機・暁天一型」である。
この計画は、かつて構想されていた「富嶽計画」を参考にしつつも、それを遥かに超える性能と破壊力を備えることを目標としていた。
「暁天(ぎょうてん)」という名には、「敵地の黎明に雷鳴のごとく出現し、戦局の曙光をもたらす兵器」という意味が込められていた。
暁天一型の全長は38メートル、翼幅53メートルと、当時の既存爆撃機の常識を大きく超える巨体を誇った。機体には鋼とジュラルミンの複合構造が用いられ、軽量化と強度確保が同時に追求された。
最大搭載燃料は24,000リットルに達し、理論上は12,000キロメートルの航続距離を実現。
これにより、南方の基地からハワイ、あるいは日本本土から中継なしでアメリカ西海岸を攻撃することが可能とされていた。
武装面でも極めて重武装であり、機体下部には連装の20mm機関砲2門を搭載。両舷には旋回式の13mm機銃塔を備え、後部にも同様の機銃塔を設けて敵機の追尾に備えた。
さらに機内の爆弾倉には、最大で10トンの爆弾を搭載可能とされ、対地制圧力は比類なきものだった。
とくに、対艦攻撃用に設計された貫通型爆弾や、燃焼持続型の焼夷弾を選択式で搭載できる点が注目されている。
本機最大の特徴は、当時の技術水準では考えられなかった「高高度滑空型戦略爆撃」を目指していた点にある。
高度14,000メートル以上の成層圏近くを滑空飛行することによって、敵戦闘機や高射砲の届かない空域から爆撃を行うという前代未聞の戦術が構想されていた。
このため、機体には与圧式キャビンを採用し、操縦士や搭乗員の酸素供給・温度管理のための環境制御装置も試作された。
動力には、新開発の液冷式24気筒エンジン「KX-24」を4基搭載。このエンジンは、実験段階では総出力8000馬力を超える性能を記録したが、過熱によるトラブルやメンテナンス性の悪さから、安定運用には至らなかった。
推進装置にプロペラを採用していたが、一部ではジェット補助装置の搭載も検討されていたとの記録も残っている。
開発は東京近郊の極秘実験施設で進められ、昭和20年初頭には木製モックアップによる風洞実験を経て、実機の一部構造体が組み立てられた。
しかし、戦局のさらなる悪化と資材不足により、アルミニウム合金や高温耐性鋼の確保が困難となり、実機の完成は遅延。
加えて、エンジン部品の焼損事故、設計スタッフの徴兵、工場への空襲被害が重なり、ついに試作1号機は地上滑走試験の段階で計画中止となった。
戦後、進駐してきた米軍により接収された資料の中に「暁天計画」の概要が含まれており、その規模と構想力にアメリカ軍関係者も驚愕したとされる。
ある米空軍技術者は、「この計画が3年早く始まっていれば、日本は戦略爆撃能力を一部手にしていたかもしれない。
ただし、当時の燃料生産能力と航空基地の規模では運用に限界があっただろう」と述べている。
「暁天一型」は、完成することなく終戦を迎えたが、その設計理念――長距離・高高度・重武装という三要素の統合は、戦後の航空機開発、とりわけ1950年代以降の国産旅客機「Y-11型」や高高度偵察機の設計思想に影響を与えたと言われている。
今やこの超重爆撃機は、資料数点と関係者の証言によりその存在が確認されるのみで、写真すら残っていない。
「幻の超爆」として歴史に埋もれた暁天一型は、戦局に追い詰められた国家が夢見た“空想の兵器”であり、同時に技術と構想力の到達点でもあった。