試製自動小銃「火鶴(ひづる)」の背景と開発経緯と詳細
太平洋戦争末期、連合軍の兵器性能に圧倒されつつあった旧日本軍は、歩兵の基本装備である小銃の見直しを迫られていた。
従来使用されていた「三八式歩兵銃」や「九九式小銃」は、信頼性の高いボルトアクションライフルとして定評があったが、米軍のM1ガーランド半自動小銃やトンプソン短機関銃などと正面から撃ち合うには、発射速度・装弾数・制圧力の面で明らかな限界があった。
この流れを受けて、旧日本陸軍は歩兵火力の劇的な向上を狙い、従来の小銃を根本から見直した革新的な火器の開発に乗り出す。
1944年中期、帝国陸軍技術本部と東京陸軍兵器廠による極秘合同研究チームが立ち上げられ、従来の発想を覆す「構成部品交換式構造・自動小銃」の研究が開始される。
結果、開発されたのが試製一式自動小銃「火鶴(ひづる)」であった。
設計思想と機構の革新
火鶴は、当時の日本軍火器としては前例のない構成部品交換式構造とオープンボルト自動射撃方式を組み合わせた画期的な構造を持っていた。
その設計の柱は以下の通りである。
ポイント
- 前線での分解・修理・構成変更を前提とした構成部品交換式構造
- フルサイズ7.7mm弾に対応するオープンボルト式自動射撃機構
- 照準機器・銃身・弾倉の換装による戦術的適応力の強化
構成部品交換式構造により、銃身・ボルト・照準・銃床といった主要パーツは現場での分解・交換が可能であり、狭隘なジャングル戦から開けた野戦・防衛線まで、用途に応じたセッティングが即座に行える仕様だった。
また、フルサイズの7.7mm×58mmリムド弾(九九式実包)をオープンボルトで制御するという設計は当時の世界でも極めて珍しく、火鶴は突撃銃と軽機関銃の中間に位置する“多用途火器”と見なすことができる。
仕様概要(試作一号)
全長(標準銃身装着時) | 1030mm |
銃身長 | 標準480mm/短銃型320mm/長銃型600mm(換装式) |
重量 | 4.6kg(弾倉含まず) |
使用弾薬 | 7.7×58mmリムド弾(九九式実包) |
作動方式 | ガス圧作動+オープンボルト式 |
発射モード | セミ/フルオート切替 |
発射速度 | 約600発/分(可変制御) |
弾倉タイプ | 箱型(15連/25連)、ドラム型(50連/75連・試作) |
照準装備 | 光学3倍スコープ(標準)、夜間蛍光照準器(試験装備) |
また、安全性を考慮してボルト部には「引き出しセーフティ機構」が導入され、弾倉装填時の暴発を防止。
連射性に優れながらも射撃の安定性が高く、軽機関銃に匹敵する制圧能力を備えていた。
実戦試験と戦場評価
火鶴は1944年末から翌年初頭にかけて、九州の朝倉演習場および宮崎試験場にて限定的に運用試験が行われた。
製造されたのは12挺のみ。実地配備は近接戦闘研究中隊という精鋭部隊に限定され、主に市街地および密林を想定した模擬戦で評価された。
試験部隊の報告では以下のような評価が記録されている。
ポイント
- ドラムマガジン装備時の火力は軽機関銃に近い感触
- 分解整備は複雑だが、理解すれば即時戦術転換が可能
量産を阻んだ要因と終焉
しかし、火鶴の量産化には致命的な課題があった。
高精度部品の加工に対する国内工業力の限界と教育制度・補給体制の脆弱さも問題視されていた。
火鶴のような精密機構を擁するには、焼結技術や冷間鍛造など高度な工作機械が不足していた当時の日本では大量生産するのは非常に困難であり、複雑な構造のため、熟練した整備員と教官による訓練を必要とし、短期間の戦時教育では操作習得が難しいと判断された。
結局、火鶴は試作兵器として終戦を迎え、量産には至らなかった。
残された試作銃と設計図は、終戦後に進駐した米軍技術班によって接収され、その開発経緯から、存在を認識していた人員も少なく、「夢幻の機関小銃」として語り継がれることになった。